連載中 3. 鮎の眼をした雪女
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正運寺に着くと和尚が出てきた。さぞ疲れたろうという風にわたしを眺めて庫裏に招き入れた。
「吉伸(よしのぶ)さんに今しがた電話した」と、長男の名前を出した。
お千代さんが離れに布団を敷くのが見える。
「顔色が悪いのう」
和尚にはわたしが病人のように見えるのであろうか。雪の中で一度転んだ。雪駄の片方がはね飛んだので、田んぼの畦(あぜ)に降りた。脇の下の背中側が痛い──汚れているのかもしれない。
お千代さんに脱ぐのを手伝ってもらい、寺の丹前に袖を通すと落ち着いた。すぐ横になるのを遠慮して、部屋の真ん中で炎をあげる木炭火鉢にいざり寄る。お千代さんが酒の膳を用意し始めた。
ガラス障子から見える山の冬景色は趣きが深い。熱い酒もよかった。長男の嫁が言伝た佃煮も
和尚が喜んだ。
「酒が)強くなられましたな、和尚」言ってみる。
「抑えているが、檀家が帰してくれんのだ」
和尚は檀家の家族、親族の中に誠心誠意入って行く。人々は酒の席であってもお寺さん(和尚さん)の話は耳をそばだてて聴く。それが風習のように根付いており、気持ちに寄り添い降りて来てくれる坊さんであることが慕われる。
『又さん(又四郎)が連れ合いを亡くして、わしに酒をすすめた。…何も言えんまま朝まで飲んで、自慢の酒を飲みあげてしもうた──あの頃からだ」
「又さんもさびしゅうなった」
熱燗(かん)の酒と気のおけない和尚、時々顔を見せるお千代さんを交えて、いい気分になったわたしは、わけがあって寺に来たことをしばらく忘れていた。
「昭男さん、急を要するようだな」和尚が口火を切った。
「死相が出ておる…」言いにくいことを言ったように湯飲みの酒をグッと呑んだ。
わたしも始めた。「変な夢を見た。訊きたかったのはそれなんだが──今朝、途中でも妙なも のに会った」
家内の供養では和尚に世話をかけた。寂しさから夜の街に出て和尚と大騒ぎしたが支払いもせず別れていた。今回は、焦点のある話になった。夢のこと、今朝、出会った女のこと…言い外れがないように言葉を選んで話した。
「わからんが……」和尚は考える表情をして「お里さんか、のう…」と言った。
「お里さん?」覚えがなかった。お千代さんが入って来た。〔里美とかいう天野さんの娘さんですよ。わずろうていた母親がこの間、元岡(県境)のホームで死になさった」言って口をつぐんだ。
記憶がよみがえってきた──疎(うと)ましい、悔やまれる思い出が邪魔をしている。
『老松町の天神屋だ』和尚がつづける。『変なおなご(女)を山道で見たと父親が言いよったのを若社長が聞いている』
寒の強い年にその父親は死んだのだ。地元高校の運動部の先輩だったことで知っていたが、高校の剣道部にいて温和しい性格だった。町へ引っ越して付き合いが途絶えたが、近くにいる時一緒に遊んだ。呉服屋のあの跡取りが八十まで生きて、死んだことを知った。
わたしは地元の私立単科大学を受験して合格、関西の企業に入社して九州を離れ、転々とした。高度成長の最盛期でがむしゃらに働いて営業の課長になった。職場の女を妻にしたが、利口な女でよく諍(いさか)いもした。わたしがうわべを気にする人間だと見ぬかれていた。部長昇進の話が出た頃を発端に、部下からの虚偽の報告が発覚して責任をとるかたちで左遷された。五十を過ぎて転職して北九州に移り住み、その後、故郷に戻って来た。自分では、実直にただ誠実に生きた会社勤めの人生だったと思う。上司との軋轢(あつれき)はあったがわたしの父親のような破綻はなかったし、相対的にいい人生ではなかったかと思う。天神屋の息子とは面識がないが、わたしの長男と
ほぼ同じ年令になっているはずである。